序文より
「母はここ数年で初めて落ち着きました。今までで一番平和な毎日です。精神科の薬ってこんなに効くのですね」
先日,外来診察中に,ある認知症患者の子が著者にかけた言葉です。その患者さんは物がなくなったのを家族に盗まれたと思い込み,乱暴な言動に出るようになったため家族が本人のかかりつけの内科医に相談したところ,精神に作用する薬である向精神薬が次々と投与され薬の量がどんどん増えていきました。しかし一向に良くならないまま月日が過ぎたため,乱暴な言動にこれ以上耐えられないと家族が訴え,かかりつけの内科の紹介で精神科病院の著者の外来を訪れたのです。お薬手帳を確認すると,抗認知症薬,抗不安薬,抗うつ薬といった複数の向精神薬が同時に投与されていました。いわゆる併用治療です。向精神薬が効かないのでどんどん薬が足されていったものと思われました。
しかし,実は向精神薬の基本は単剤治療です。単剤治療に比べると併用治療は有効性が不確実なうえ副作用の危険が大きいからです。この方の治療がうまくいっていない原因も併用治療にあると思われました。そこで著者は,そのとき出されていた向精神薬をすべて中止しました。1 週間ほど経過観察したところ「薬をやめてから悪くはなっていないが良くもなっていない」とご家族がおっしゃったので,1 種類の抗精神病薬を1 日1 錠投与することにしました。いわゆる単剤治療です。するとたちまち乱暴な言動が落ち着いてしまったので,基本どおりに処方しただけに過ぎないのに「精神科の薬はよく効く」という冒頭の過大なご感想を頂いた次第です。
基本が知られていないがゆえに起こるこのような悲劇を減らすために本書は書かれました。本書は,一般臨床医向けの,高齢者への向精神薬の使い方に関する解説本です。第Ⅰ章が向精神薬の総論で,第Ⅱ章から第Ⅷ章までが向精神薬の各論です。最終の第Ⅸ章では向精神薬の使い方が述べられています。なぜ高齢者について取り上げたのかというと,一般臨床における患者層は高齢者が多いことと,薬の副作用が出やすい高齢者こそ基本に忠実な単剤治療が肝要だからです。客観性を保つために,個人的な経験を述べることはできるだけ避け,診療指針や臨床研究を紹介するよう心がけました。ただし,診療指針の推奨内容のうち現実の世界に合っておらず順守すべきでないと思われる部分については,具体的な根拠を示して順守すべきでない理由を述べました。精神科の診療指針のどの部分が妥当でどの部分がそうでないかを一般臨床医が判断するのは大変だと思いますので,本書はお役に立てるかと思います。もちろん,著者の見解が間違っている可能性もありますので,どちらが正しいのかを読者にご判断いただければ大変幸いです。
一般臨床医向けの本なので,精神科医にとって本書の内容は簡単すぎるかもしれません。すなわち本書においては「統合失調症の診療指針では抗精神病薬の単剤治療をするよう推奨されていて併用治療をしないよう推奨されている」「うつ病の自然寛解率は2 年で80~90 %」「抗うつ薬のプラセボ対照試験の約半数は失敗」「気分安定薬のリチウムは双極性障害の自殺率を減らす」「ベンゾジアゼピン受容体作動薬を2 週間以上使うと薬物依存の危険がある」「DSM- 5では12 歳以前に症状が存在していないとADHD と診断されない」「抗認知症薬は診断が合っていないと効かない」「飲酒を前提に開発された向精神薬はナルメフェンだけ」「どの精神疾患であってもその治療が完結するまでの間はお酒を飲むことを控えることが治療上非常に重要」などといった精神医学の教科書的な知識が述べられている一方,精神医学の最先端の研究についてはとくに触れていないので,精神科医にとっては本書の内容に目新しいところはなく,向精神薬に関する知識の整理程度にしか役立たないかと思います。ただ,高齢者に対する向精神薬の使い方についてはとくに詳しく記していますので,高齢者の診療になれていない精神科医であれば日常臨床の参考になるかもしれません。
本書は一般臨床医向けですが向精神薬に関する診療指針や臨床研究の内容がまとめられているので,精神症状のある高齢者にかかわることがある薬剤師にとっても有用かもしれません。すなわち本書を参照していただければ向精神薬に関する疑義照会や処方提案をする際に相手を説得する根拠を探しやすくなるかもしれません。
向精神薬に関する公開情報をできるだけ易しく読めるように書いたつもりですので,この領域に関心のある医療・介護に従事しているあらゆる職種の人や現に向精神薬を投与されている人や家族にとっても本書はなんらかの手助けになるかもしれません。ただ,どんな薬にも副作用が起こる危険がありますので,自己判断で向精神薬を使い始めたり処方されている量以上の向精神薬を使ったりするのはおやめください。また,向精神薬には禁断症状の危険がありますので,自己判断で向精神薬をやめたり量を減らしたりするのもおやめください。副作用や禁断症状を軽視するのはきわめて危険です。なお,医師が処方した薬を他人に譲り渡した場合は「医薬品,医療機器等の品質,有効性及び安全性の確保等に関する法律」や「麻薬及び向精神薬取締法」に抵触し,懲役や罰金といった刑罰を課せられることがありますのでご注意ください。
中立的な立場から本書を書くように意識したつもりですが,無意識のうちに著者が特定の立場をひいきしている恐れがありますので,以下に著者の利益相反を示します。2020 年現在,著者は精神科病院に常勤の精神科医として雇用されています。著者は日本精神神経学会の専門医・指導医です。著者は日本老年精神医学会の専門医・指導医・評議員です。著者は日本神経精神薬理学会の会員で,統合失調症薬物治療ガイドライン改訂委員に委嘱されています。著者は厚生労働省の精神保健指定医に指定されています。これらの利益相反を前提とすれば,著者が精神科受診や収容型精神医療や向精神薬使用を推進する方向に自分でも気づかないうちに偏っている可能性は十分にありますので,そこは割り引いて読んでいただければと思います。