まず,漢方の“証”について勉強してみようという高い向学心で本書を購入していただいた読者に対し,畏敬の念を捧げるとともに深く感謝します。
本書は“証”の解説本ですが,著者である私自身がこの概念をすべて理解し,実臨床で常に活用しているというわけではありません。正直言いますと,“証”に関しては読者の皆様と同様に迷宮の森で彷徨っています。ただ,私は今までの医師人生の8割を漢方と関わって生きてきましたが,臨床実践にあたり難解な“証”に対して読み取る努力をしてきました。“証”を読むことに邪魔であれば病態の一部を切り取ったり,時には視界から消したりしながらも,常にこの患者の“証”は何だろうか,方証相対であればどんな“方”を要する患者なのだろうかと考えながら診療を行ってきました。
漢方医学は元々は6世紀ごろに古代中国医学をそのままの形で輸入し,学んだことから始まります。おそらく紀元3世紀頃に一旦体系化され,それが時を経て中国国内ではさまざまな医師によってさまざまな修飾が加えられ,書物が書き換えられ,また新たに作られてきたのでしょう。成書も虫食いがでるとその部分はそれぞれの医師が自分の能力の範囲でそれを埋めて,現在に至っています。ですから,今日までにかなり文章が変化し,それにつれて診断法も治療法も変革があったと想像されますので,“証”に関する概念や取り扱い,あるいは診断や治療への応用の仕方も時代を経て少しずつ変化しているのだろうと思われます。わが国で漢方を実践する医師の多くが成書として一通り目を通す古典に「傷寒論」と「金匱要略」という書物があります。その書物の内容に“医学”としての一定の形を読み取ることができます。これらは誠に古い書物ですが紀元3世紀頃には立派に編集されていたと考えられており,そのうちの「傷寒論」に本書のテーマである“証”という言葉が登場しています。古代中国医学において“証”をどのような感覚で捉えていたかがわかります。たとえば「太陽病,外証未だ解せず,下すべからず」や「陽明病,外証いかん。答えて曰く,身熱汗自ら出で,悪寒せず,反って悪熱する也」という記述があります。この記述からみると,傷寒病の初期症状を意味するものとして外証という言葉を用いているのみならず,身体浅表部を表す病態,病状としても用いています。このことから古代の中国では,“証”は症状や病態,病状を表現する際に用いられていたのではないかと推測できます。現在の漢方医学では外証という言葉は一般的には使用する機会は減っていますが,“証”はさらに広い意味を持つようになっているようです。また,傷寒論のほかの部分には「傷寒五六日,嘔して発熱する者は柴胡湯の証具わる,而して他薬を以って之を下し,柴胡の証なお在る者は,また,柴胡湯を与う」という記述もあります。そこには,柴胡証とか柴胡湯証というような生薬証や方剤証とも呼べる“証”が登場しています。このことから,古代から柴胡という生薬にぴったりの“証”があることや柴胡湯という方剤が適合する病態や症状というものがあることを医師たちは見出していたことがわかります。それらも“証”という概念に加えられており,こうしてみると,古代中国医学ではさまざまな角度から病者を眺め,病気の性質や病態を表す際に,“証”を便利なツールとして用いていたのではないかと考えられます1)。 “証”を結構便利な概念として病気の診断や治療に用いていたことと“証”の科学的な解明への取り組みが医学体系の性質上困難であり,最近ようやく着手されたものの相当の時間を要していることが,時を経て“証”は難しいという観念を作り上げてしまったのかもしれないという感想を抱かざるを得ません。
傷寒論には上記以外にも“証”に関する記述がいくつかあります。 “証”は人の体質や病気への抵抗力を表現する際にも用いられています。病態や病気の性質だけではないところに用いられるのでややこしくなるわけです。「汗を発っして後,悪寒する者は虚するが故也。悪寒せず,但熱する者は実する也,当に胃気を和すべし,調胃承気湯を与う」という記述があります。この条文は,感冒の際に悪寒はないがむんむんと体が熱いのは実証であるから調胃承気湯がよいという意味ですが,この条文に虚実という“証”が入っています。虚実は基本的には人体の正気の量と病邪への抵抗力というものを判断するものさしです。たとえば実証の人が病気になった場合,勢いがある病邪と多量の正気の闘争が起こるために症状は激しくなり,熱も高熱で,夜中じゅううなされるような,すぐに病院へ連れて行かなければ心配で見ていられないという症状がでます。幼児の感冒によくみられる臨床像です。逆に虚証は元来の正気の量がさほど多くなく,そこに病邪が侵入してもあまり盛大に争いが起きません。そのため患者の苦しさは少なくないけれども表面的な症状はおとなしいわけです。すぐに病院に連れて行かなければという気がおきないのです。しかし知らぬうちに重大な局面に差し掛かっているという事態を招くことがあります。高齢者の肺炎によくみられるケースです。虚実“証”は健康状態なのか病気状態なのかにかかわらず,個々人それぞれの人体の状況,体質というものを説明するものと解釈できますが,これが病状や病気のステージを説明する“証”と一緒に用いられるため,どんどん“証”は難しくなるのです。漢方に足を踏み入れたら誰もが“証”を理解する努力はしますが,ほぼ例外なく一度挫折します。すでにその状況になっている読者もおられると想像しますがご安心ください。
“証”は漢方理論を構築する要素の中でもたいへん重要な位置を占めるものですので,私の考えている漢方理論について少しだけ述べさせていただきます。私は,医師として仕事を始めて15年ほどの頃,必要にかられてどうしても漢方というものの勉強をしなければならなくなりました。そこで思い切って漢方の医学講演を聴きにいきました。最初に漢方の基礎理論の講義を聴講した感想ですが,それは私の全く知らない世界だと知ったことと,西洋医学を学んで医師免許を持っていることが漢方を理解するために何の役にも立たないと感じたことでした。私は正式な哲学書はほとんど読んだ経験がありませんが,ヴィトゲンシュタインやマラルメの哲学理論のほうが理解できるような気がしました。
漢方医学はその根底に中国古代の思想である「陰陽五行論」があります。中国の世界観とか人生観とかさまざまな事象を解釈する時に,この「陰陽五行論」が持ち出されます。自然界の諸処の構造,性質や現象等の成り立ち,ありかたや方則に対する認識であり,概念や物質の属性,相互関係も説明するものです。これが人体や病気を扱う医療の根本的な概念に導入してよいものかどうか私には答えられませんが,漢方医療ではこれを「五臓六腑」として取り入れ,人の構造を5つの要素で説明しています。西洋医学で生理,解剖,生化学の基礎医学を学び,病理や臨床で人体の構造や機能を学んだ私にはこれを受け入れるのには時間がかかりました。今でも大きな抵抗を覚えており,「五臓六腑」で目の前の患者の病態を理解したとしても頭の隅に疑問符をかかえながらの日常です。なぜなら,表現の良し悪しは別として,男女同権の世に,男を「陽」,女を「陰」として捉えるような考え方を無理やりしなければならないからです。漢方には通常,陽虚や陰虚,あるいは陽盛とかの病態を読み,身体の中での陰と陽のバランスを整える治療をすることで健康を回復させるというような考え方があります。頭ではなんとなくイメージは沸きますが,科学としての医療でそんなふうに人体の現象を扱っていいのかといつも悩みます。
五臓の肝には感情の調節や謀慮の機能があるとするわけです。これもなんだか哲学とか人文学領域の解釈のようですが,人の病気や病態を深く考えると,いかにもそうだと思える部分があるのも事実です。父性と母性の違いは,学理的証明はないものの感覚的には絶対に存在すると思えるものですから。ですから,科学的な頭とは別に,病気の性格や病態をじっくり観察し,整理してみると,「陰陽」や「五臓六腑」という概念でしっくりくる,腑に落ちるところがあるなぁと考えている頭があることに気付いてしまいます。そういうところが,科学に加味されているのが漢方ですので,漢方理論というのは一概に科学的なリサーチだけでは解明できないのでしょう。一応「陰陽五行論」とか“証”という概念でこころの状況や,身体の不調への説明をし,病気の治療を行っていたわけですから,人の感性というのは科学を超えるものがあるようにも思えます。
このように漢方理論というのは科学とそれ以外の要素をうまく組み合わせて構築されています。それ以外の部分を今は「アート」と呼びますが,現在の私たちの科学レベルのはるか上位に漢方理論は位置していると思えます。そこで“証”を含めて現時点で,漢方理論の全貌を科学的に説明するのは困難だと結論づけられます。私たちがそれを理解し,納得できるためには数段階上位への科学的水準の高まりを待ちましょう。おそらく,鉄腕アトムが庶民の生活に馴染む程度の科学の発展がないと本当の意味での,私たちが安心できるレベルでの「よくわかった」はないと感じます。
漢方理論についての私見をまとめます。長い歴史をかけて築かれた漢方医学の体系を,一旦すべて肯定的に受け入れ,その理論を軸として上手に実践的に活用することが望まれます。漢方は科学ですので,いずれその理論や診断法等も科学的に正当性が証明されるでしょうが,その解明には生命科学の研究に携わる全員が常に努力すべきです。理解が難しい“証”に関しても同じスタンスに立ちましょう。
本書は,“証”の入門書として,誰が読んでもそれなりに理解していただけるよう最大限の工夫をしながら執筆しています。逆に言えば専門的過ぎる表現を避け,漢方医学の理屈は内容の展開に取り入れていません。また,“証”は漢方医一人ひとりが独特の輪郭で,あるいは色で理解していますから,現在指導を受けている上級医師とは異なる意見を本書に見つける読者もおられるでしょう。“証”の本体やその活用の仕方に今のところ正解はありません。そのことを踏まえて“証”を取り入れた漢方を実践していただくようお願いします。内容の展開上,難しい漢方用語を使用せざるを得ない所もありますが,そういう専門用語が出てきたとしてもそこはとりあえず読み飛ばしておいて,将来わかるようになったら再度読んでいただければ幸いです。
一人でも多くの医師が漢方医療を修得し,正しく実践できるための手助けとして本書を活用していただくことを希望します。そして,現状の医療に満足できず,不安で過ごしている病者を救うことができる本物の「臨床力」を有する癒し人の誕生に期待します。
最後になりましたが,本書の執筆の機会を与えていただき,遅筆にもかかわらず暖かく見守っていただいた上,編集,校正に助言をいただいた洋學社の吉田氏に深甚な謝意を申し上げます。